AIはヒトを滅ぼすか?
こんばんは、矢口新です。
AIは人類を滅ぼす可能性があると言われている。
私見を述べれば、可能性は大だ。
何故なら、AIは合理的だからだ。
ヒトのように、善悪、美醜、愛憎、好みなどに惑わされることがない。
また、共感もない。
「心」があるように見えても、それは合理的な反応に過ぎない。
では、AIが「心」を得ることはあるのか?
私には分からないが、善悪、美醜、愛憎、好みなどを学習させれば、
いずれは「心」らしきものを得るかもしれない。
とはいえ、そこに到達する前にヒトはAIと対立し、
AIに負けると見ている。
何故なら、善悪、美醜、愛憎、
好みなどを教えるヒトは矛盾だらけなのに対し、
AIは合理的で、迷いがないからだ。
アマゾンプライムで興味深い映画を観た。
2015年製作のようなので、ご存じの方々もいるだろうが、
2024年の今観ても違和感がない近未来のAI映画だ。
「オッペンハイマー」なども劇中の話題として出てくる。
参照:エクス・マキナ (字幕版)
人間か、 人工知能か―― 検索エンジンで有名な世界最大のインターネット会社“ブルーブック”でプログラマーとして働くケイレブは、巨万の富を築きながらも普段は滅多に姿を現さない社長のネイサンが所有する山間の別荘に1週間滞在するチャンスを得る。806IMDb 7.71時間48分2015
エクスとは、かつての、前のという形容詞でもあるが、前夫、前妻、元カレ、元カノを意味する名詞でもある。マキナはマシンだ。つまり、人間になったAIを暗示している。
その映画で違和感を覚えたシーンがあり、すぐに違和感の理由を納得した。
ヒトは共感する。他人の動きでも自分の動きのように捉えることができる。格闘技を観ていて自然に自分にも力が入ってしまうのは、選手の動きに共感しているからだ。また、大谷翔平のホームランにスッキリとした感覚を覚えるのは、力の入り方抜け方に共感してしまい、一種の達成感が得られるからだ。
昔、ヤクザ映画を観た人たちは、映画館を出た後の歩き方がそれ風になっていたという。ヒトは良いも悪いもすぐに感化されるのだ。
私がその映画で違和感を覚えたシーンは、AIがナイフでヒトを刺すシーンだった。スーと豆腐に包丁を入れるかのように、全く勢いや力を感じさせない刺し方だった。ヒトならば、バックスイングしたり振りかぶるなど、必ず力を入れたことが伝わってくるはずだ。
考えれば当然だ。そのAIは電力で動いているので、弱を強にするのに反動などを利用する必要がない。
握手する人型ロボットは、何のそぶりも見せずに相手の手を握り潰すことができる。そうしないのは、ヒトがそうしないように制御しているからだ。このことは、自分で自分を制御するAIが現れれば、太刀打ちできるヒトがいなくなることを意味する。
ヒトでも太刀打ちできるような人型ロボットにするには、役立たせることを多少は犠牲にしても、もともとヒト並みに低パワーの人型ロボットにし、ヒトのように壊れやすい素材で作るしかない。
AIがそうした「欠点」を補う人型ロボットを自分たちで作り始めたならば、人類が滅びるか滅びないかは、AIの「良心」にすがるしかなくなるのだ。あるいは、ヒトの方が他のヒトを支配するために、強力な人型ロボットを作るのかもしれない。
ヒトは矛盾だらけだ。それだけではない、善悪、美醜、愛憎、好みなどに振り回され、価値感さえ曖昧だ。本来、それらは共感と共に人間らしさとして合理性を超えてもいいはずのものなのだが、ここ数十年の世界の経済政策だけを見ても、とてもAIには敵わないと見ている。このことは、ヒトを滅ぼすのは、ヒトである可能性の方が高いことを意味するのではないか?
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