優しい地獄
From矢口新
過去の「革命」の多くは、
一部の主導者たちが既存の権力に対する多くの人々の怒りを結集させて、
新たな「自由で民主的」な世界をつくると謳いながら、
革命後には自分たちが既存の権力に成り代わった。
そんな社会主義革命があったルーマニアから日本に移住した人類学者が
「優しい地獄」(亜紀書房:イリナ・グリゴレ著)を出版した。
ダイヤモンドに同氏のエッセイが載っているので、
その全文を紹介する。
こなれた文章だ。
(引用ここから、URLまで)
ルーマニアの工場だらけの町で暮らした幼少期
団地があったのは社会主義の名残を残した小さな工場だらけの町なので、大学に上がるまでオペラやバレエの上演がある劇場や映画館に出かけたことが全然なかった。今にしてみれば、あれは人間から宗教とアート、尊厳を奪ったら、その社会に何が残るのかという、一種の社会実験だったのかとさえ思う。
母と父は経済的な余裕がなかった。二人とも生きるのに必死だった。母は朝から肉と牛乳の行列に並び、父は工場の仕事にすべてのエネルギーを使い果たすような毎日だった。ある意味、私たちは日常生活そのものをパフォーマンスとして生きていた。父は毎晩遅く工場から帰ってきて、顔は真っ赤でアルコールの匂いがした。そしていつも何か叫んでいた。私と同じく彼にも潰された夢がたくさんあったのだ。
家族では毎晩、壮大な劇が演じられた。物が割られ、服が破られ、壁に酒瓶が投げ付けられる。それが朝まで続く。
父が働いていた工場は、街で最大のものの一つだった。一回その仕事場を見に行った時、チャップリンの『モダン・タイムス』を想起させる不気味な雰囲気があって、正直とても怖かった。人間が機械を支配しているのか、それとも機械が人間を支配しているのかわからない。それはとても微妙な関係が生まれているような空間で、身体に染み込んでくる。オーウェルの『1984』の雰囲気がよく当てはまる。
私が言いたいのは、そのような工場が本当に存在していたということだ。そして、そこで働かされていたのは、私の父みたいな肉体を持っている生の人間だったのだ。工場は子供の目線から見ると、人間と機械が混ざった、豚の内臓のような無茶苦茶な空間に映った。解体した豚を一度見るといい。内臓と血の塊の中からまだ温かい、死んだばかりの生き物の湯気が立ち上る。
社会主義に奪われた人々の身体
私にとって、工場の機械も生物の器官として理解できたが、やはり豚が生き物なのに対して、あの中の鉄塊が恐ろしいものの内臓としか見えなかった。
父は仕事服を着て、自慢げな顔でその化け物のような機械を紹介する。父はプロパガンダ映画に出ている若手エンジニアの像そのものだ。
工員の顔を見るのはとても好きだった。そこで働いていた人たちは父と同じ、田舎出身だった。つらかっただろう。川と森の代わりに機械を見守る毎日。社会主義国家に生まれ、完全に計画経済の子だったため、工場は彼らの身体を支配し続けた。父はよく頑張ったと思う。私はそのようにはなりたくなかったから、私の身体があらゆるものにたいして抵抗しつづけた。言葉を完全に失うまで。
毎晩、父が暴れるたびに、私の身体は動かなくなった。ひとたび傷つけられると、身体がまったく反応しなくなる。金縛りのような状態が何時間も続いた。ルネ・マグリットの絵に出てくる空に浮かぶ大きな石のように。意識があるけれど不思議に身体が動かせない。つらかったというより、今にしてみればある種の踊りにしかすぎなかった。傷つけられた身体で懸命に自然を探そうとしていた。
フキノトウの苦みは人生の苦み
東北の冬の話をしても、実際に身体で感じないとわからないことがたくさんある。私の場合は、冬の終わりのころに寒さに耐えられなくなる。泣きたいぐらい寒いと感じる。自分の限界を感じる日がある。しかし、限界だと思う日に幻のように、冬が終わりそうもない中で、窓の下の石の間からフキノトウの黄緑の葉が見える瞬間がくる。
フキノトウはしばらく目で十分に楽しんだあと収穫し、津軽地方でいうバッケ味噌を作る。春を身体で感じる瞬間と言ってもいいぐらい喜びを与えてくれる。軽く炒めてからお酒と味噌を混ぜ、瓶に入れる。冷蔵庫で一カ月くらい寝かせると、苦みは甘味に変わる。でも、我慢できないので作った日に一口、二口味見する。苦い。ものすごく苦いが、この苦みは人生そのものだと感じる。この日のために冬を過ごしたように。
この苦みを少しずつ味わう季節が今年もやってきた。近くの有名な公園の桜の花よりも、私にとってはバッケの苦みが春と再生の証拠になってきた。歳とともにこの地域の味がわかるようになったのかもしれない。私の喜びが電波で通じたのだろう、次の日に、お向かいに住んでいる方に誘われて、庭のフキノトウが取り放題になった。その夜は天ぷらに。苦くてカリカリし、日本酒に合う。私を天ぷら達人にした新鮮なフキノトウに感謝。
青森県に住んで、すこし狩猟採集民の気持ちを味わっている気がする。春には山菜、秋にはキノコの達人がいる。物々交換の習慣がまだ残っている。ある秋の日、夫と散歩した山で立派なムラサキシメジを発見した思い出はいまだに魂に刻み込まれている。生まれてはじめて紫色のキノコを食べた。いまでも山菜と同じで、人生で食べた一番おいしいもののトップになっている。おいしさの秘訣は、新鮮で、自分で採っていることに加えて、野生の物であることだ。山の幸という言葉がぴったり。山菜は自分に嘘をつけない。だから苦い。
東北の山菜に感じるルーマニアのノスタルジー
何年か前に、父親がたまたま山菜の季節に来日した時のことを思い出す。近所のお母さんから山菜の詰まった袋をもらって天ぷらにした。
山ウドをはじめて口にした父は、「肉みたいだけど肉よりおいしい」と言った。たしかに肉のようなおいしさだ。山菜とは世界の肉だ。世界の肉は苦いし、濃い緑色をしている。食べると身体も緑になるが、この世で一番おいしいものなのだ。四月中旬になると、各道の駅では、山ウド、タラの芽、こしあぶら、コゴミ、ボンナ、ねまがりだけ、しどけ、うるい、かたくり、にりんそう、ハンゴンソウの芽などを売っている。名前はおまじないの言葉みたいで私の身体に音からなじむ。白い冬の後にくる緑の波のイメージが私の脳を鮮やかにする。
記憶をたどると、この濃い緑は子供のころから味わっていた。春先に、ルーマニアではイラクサの若芽を食べていた。津軽ではアイコと呼んで、食べる。農作業で手の皮膚が固くなっていた祖母は素手で採って煮て、ポレンタと一緒にお皿にもりもりのせていた。イラクサの濃い緑のペーストと鮮やかな黄色のポレンタの組み合わせは美しかった。伝統的な陶器の食器と木のスプーンも自然のもので、復活祭の前の食事に欠かせない一品だった。
こういう暮らしにノスタルジーを感じる自分がいるからこそ、毎年この時期に山菜の天ぷらを永遠に揚げる。こういう時に私は本当に幸せだと思う。解放されるから。いろんなことから、いろんな人から、いろんな世界から。私と山菜と家族の小さな物語をリピートで再生するコツを見つけたわけだ。
休日にいろんなことを考えながら、七号線で秋田へ向かった。山菜を探しに。ラジオから昭和の名曲が流れ、道沿いでは山桜と梅の花が終わりを迎える中、ニシンの歌の中のニシンが光る海と桜の景色が同じに見えた。夫は空海と道元の思想を説明してくれる。あっという間に二ツ井に到着。縄文時代の面と古代の杉の木が飾ってあるところで、今月が誕生日だった私は、おまけのハートがついているソフトクリームを買う。子供たちは大喜び。
読んだばかりのジャン=リュック・ナンシーの本『フクシマの後で』を思い出す。カントは「人間とは何か」が答えられないというが、今日は私たちが答えなければならないとナンシーはいう。私も一番知りたいことだ。二ツ井のきみまち坂の写真を見ながら、なんとなくこういう時期が来たと思った。恐怖からの解放、いろんなものからの解放のために、この問いが必要になってくる。山菜と同じで、味が苦いかもしれないが。
オオカミの眉毛という道具がほしい。先日、夢の中で恐ろしい鬼の頭が道端に落ちていた。はっきり見えて、頭の皮膚が裏返しに剥けて叫んでいた。『鬼滅の刃』の社会現象が、私の夢にまで延長していたと少し驚いたが、そういう時期なのかと改めて思った。これから苦い啓示の時代なのかな。
参照:青森在住「ルーマニア出身」の人類学者が東北の山菜に感じるノスタルジー
https://diamond.jp/articles/-/323057
ロシアによるウクライナへの侵攻で、「憎悪」が辺りを支配するようになった。政府同士の政策により、これまでの親せきや友人たちがいがみ合い殺し合うようになった。
日本も近隣諸国と政府同士が対立したり、友好関係を強調したりしている。そうした関係は政府が変わると、少なからず変化する。そうして、多くの場合は「国民感情」も同様に変化しているかのように報道される。またネットでは、アルゴリズムによって自分好みのものだけで世界が築かれることになっている。それも、ある意味では「優しい地獄」だろう。
自分のなかにしっかりとした判断基準がないと、そうした情報操作に振り回されることになる。そうした意味では、実体験に乏しいバーチャルな世界は危ういのではないかと思う。
お世話になっております。
本日の記事、大変興味深く拝読しました。
父親のこと、町のことさらに工場のこと。
子供のころに感じた感情を言葉で上手に表現されているところに、文学者であると感じました。
今回の記事で東北の山菜、特に「フキノトウ」の苦みについて書いてあり親近感を覚えます。【宮城県在住なので】
「フキノトウの苦みは人生の苦み」とても良い表現です。
私も子供のころは、苦くて何がおいしいのかと思って食べました。
しかし、40代となった今は、好んでフキノトウを採取して、てんぷらやバッケミソを作って
春を感じながら食べています。
これも、これまでの苦い経験を経たから、その苦みを受け入れられるようになったんだと腑に落ちました。